第21回
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■ 人体の、衝撃

 NOTICE!!

 この文章には一部ショッキングな内容が含まれており、ある思想、良識、性向、趣味嗜好、精神状態の方によっては不快感、もしくは心理的悪影響を引き起こす場合があります(その逆もね)。また、もしそのような事態となりましても当方は一切の責任を負いません。

 以上の事をご理解ご了承の上、あくまで自己責任の原則でお読みになってください(18禁サイトの前フリかよ!)。

 「人体の不思議展」というのをご存知だろうか?
 
 「プラストミック技術」・・・・「プラスティネーション」と呼んだ方が世間一般では知名度は高いだろう・・・・この優れた生体保存技術で作り出された人体解剖標本の展示会だ。
 無論、人体標本を一般に公開しているという催し物は、これが初めてではない。だが、知名度の高さで言えばやはりこの「人体の不思議展」だろう。
 
 その内容たるや実に興味深く、そしてあまりにも衝撃的だ・・・・これまでの価値観に大きな一撃を加えられるほどの。
 それでいて、見る者を決して虚心ではいさせない鮮烈な印象を、胸に刻みつけさせるのだ。
 その噂を耳にした方、実際会場に足を運んだ方の受け止めようはそれこそ千差万別だろうし、好意的な意見をものす方もいれば、嫌悪感を表す向きも少なくない。
 
 気持ち悪い、思ったより怖い印象はない、いや怖い、倫理観を疑う、実に勉強になり啓蒙的ですらある、人生最大の驚きだ、人間(の遺体)を見世物にするのか、いろいろな意見があるが貴重な体験だ。

 まあ、いろいろだ。
 
 そうであるからこそ、この「人体の不思議展」なるものを一言で、ひとくくりで片付けるのは難しい。
 会場内に所狭しと展示され、一切の言葉を用いず我々に雄弁に語りかけてくる彼ら、「人体標本」。
 その全てがそれぞれの人生を生きてきた「元人間」だ。
 泣き、笑い、怒り、喜び、打ちひしがれ、愛し、子を育み、食べ、飲み、トイレにこもり、遊び、仕事をし、支払いを済ませ、親愛なる者を気遣い、信念を持ち、学び・・・・そういう人間としての営みを人生という長いサイクルの中で繰り返し積み上げ、自分というものを築き上げて、彼らなりに生きてきた。例外のない死が彼らに訪れて、彼らが「人間」から「物」へと転化するまで。
 その人が「死んだ」と一枚の紙切れで証明された時から、その肉体の扱いは変わる。彼が車や船に載せられるとしよう。
 生前は彼は「乗客」であるが、死後は「荷物」として分類される。家族や親類などはとてもそう思えないがろうが、そう思いたくないだろうが、まだ彼に・・・・否、彼の元所有物だった彼の肉体に今だ愛を感じ、慈しみ、深く感情移入するが(当然だ)、それでも事実なのだ。そういう実感すら悲しみを増幅させるに過ぎないにせよ、ある意味これは事実なのだ。
 
 「人体の不思議展」のコンセプトの一つ、人間の肉体の精巧さを目の当たりのする事。あくまで標本は解剖学的な見地で展示されている。だが、ここを訪れた人はこう感じるべきだ。目の前に立っている「彼」はすなわち見ている「あなた」そのものの姿であり、自分も彼と同じ構造である事を、単なる知識ではなく、皮膚感覚として実感する事。
 
 それは「死」と「生」に向き合う事でもある。
 
 漠然とした「生き物だ」「人間だ」という認識から一歩踏み出し、生体的部品で構成される駆動体(全自動)たる事を知るのだ。そして神の御業としか思えぬほどの緻密な仕組みの数々、造形の巧みさ、美しさ、「これが自分なのか」と息を呑ませるほどのシステマチックな人体構造をこの目でしかと見るのだ。
 
 さあ、「彼」と正対し、観察してみるがいい。「彼」は、他でもない君なのだ。
 
 普通の感覚なら、生命の灯火を失った人間の遺体に直に対面するのは、心に大きな抵抗を感じるはずだ。人の死とは荘厳なものであり、遺体とは神聖なものだ。それがごく普通の価値観だ。
 そういった恐怖や忌避の念を排して、触れてはならぬタブーとされている領域へと踏み込み、率直な視点で人体の素晴らしさに触れる。
 死生観や生命倫理は様々だ。その人それぞれの人生観、宗教観、環境、はたまたその地域にある普遍的な観念といったものに左右されるだろう。
 どう思うかは、その当人次第だ。どう感じ、どう自分の中で片付けるかは、すべて自分の勝手だ。その考えを他人に押し付けるのも、まあ勝手だ。
 
 会場狭しとあるプラストミック処理された遺体は、「すべて生前の意思に基づく献体」との事(諸説紛々あるが)。
 
 彼らがどういう経緯でプラストミック標本として保存され、このような形で人々の目に触れる事を望んだのかはわからない。パンフレットを見れば書いてあるのかも知れないが、あいにくと手元にない。
 ただ間違いないのは、プラストミック処理され解剖標本として加工された目の前の人体が、紛れもない本物という事だ。これはどんな能書きよりも勝る説得力だ。
 会場に立ち、我々を待ち受けている彼らに、単純な意味付けなどいらないのかも知れない。
 要は、幸運にも彼らと出会う機会を得た我々が、どう思うかだ。

 見れば、何かが変わるし、変わらないかもしれない。人間とは刻一刻と変化していくものだが、この「人体の不思議展」もその一つの要因として作用してくれるかもしれない。俺はあなたではないから、どうとも言えない。
 だが、決して無感動ではいられないだろう。先述したように、良いにせよ悪いにせよ、心が動かされるはずだ。
 等間隔で何メートルにも並べられた人体断面スライス(厚み四、五センチ)標本を見て、無感動でいられるだろうか? プラストミック化された胎児の標本を見下ろして、何も物思わずにいられるだろうか(彼に生前の意志があったわけがないが、これはどうなんだろう)。
 俺には、充分衝撃的だった。確かに驚いたし気味が悪かったといった具合にも心が作用したが、それ以上のものが俺の脳内を大きく揺すぶった。うまく説明できないが、そうなのだ。
 だが、見ないで済ますよりかは、見て良かったと思っている。
 
 「人体の不思議展」を一言でうまく言い表せないかと腕組みして考えてみた。
未知なる世界、プラストミック。見る者を射抜く、人体の衝撃。いかなる意味付けも定義付けも結論付けも、実際の標本の前では霞んでしまう。
 
 その衝撃、「プラストミック・ショック」だ。

 と、いうわけでゴールデンウィークのいやにクソ暑い最中、福岡市博物館で開催された「人体の不思議・特別展」へ行って参りました。
 
 ゴールデンウィークで、しかも日曜日という事もあって大変な人出。福岡市博物館の中に足を踏み入れてビックリ、他の催し物は閑古鳥が鳴いていたのにも関わらず、この「人体の不思議・特別展」だけに限ってはかなりの賑わいです。
 
 あのオバサン、笑ってます。そう、笑顔がそこかしこで咲く入場口。
 この底抜けの明るさは何なんでしょうか。皆さん「怖いもの見たさ」の興味があるんでしょうか(そういう動機でも実に結構)、と下種の勘ぐりをしてしまいます。
 私のように思い立って行ったあなたは、当日券をお求めになってください。入場券売り場は、やはり長蛇の列。大盛況のようで結構な事です。
 ご来場の年齢層も幅広い。下はガキンチョから、上はロマンスグレーのお年寄り。テレビや街中に張り出された広告などの強烈なインパクトのせいもあってか、皆さんかなり関心があるご様子です。
 さあ! いよいよ驚異の世界へと道連れ、いやご案内しましょう。
 嫌がるな!! 来るんだよ!!!
 
 さて、俺がここへやってきた直接のきっかけは、電車の吊広告にふと目がいったからだ。そう、見てしまったのだ。今になってあの悪夢に悩まされる事を考えれば、見るんじゃなかったとほんのちょっと後悔している。
 
「人体の不思議・特別展」

 他の英会話教室とかデパートとかの当たり障りのないいたって平和な広告とは違う、何か一種禍々しさを感じるような異様な雰囲気。男性のものと思われるミイラのような色のくすんだ人体が、どこか遠くを見やりながら、全身の筋肉を広げて立っている。その横に大きく「人体の不思議・特別展」という文字が踊る。俺は前の会場の事に知識などはないから、どこのあたりが「特別」なのか、よくわからないが。
 筋肉の状態がわかるように表皮を剥ぎ、胸郭の下は空洞で内臓がなく、背中を縦に走る背骨が垣間見える。筋肉を剥ぎ取って広げているので骨も当然骨も丸見えだ。モザイク処理されてないのが不思議なくらいだ。
 これぞ、プラストミック標本・・・・「全身遊離筋肉標本」だ。
 「マッスル・オープン!」と言わんばかりに(言うかよ)雄々しい立ち姿で羽根のように筋肉を展開しているため、俺には最初それが人間には見えなかった。
 いや、ずっと以前にテレビなどで「人体の不思議展」の存在を知っていたので、それがモノホンの正真正銘の人体である事は想像に難くなかった。だが、元は人間で、仮にもこれは献体とはいっても遺体である。その遺体にこんな恐れ多い事をやらかしていいのだろうか・・・・俺は困惑した。俺の目にはそれほど異様で、罰当たりなけしからん人体アートに見えたのだ。そして思った。
 
 見に行っても、いいかも知れない。
 
 ああ、俺はなんと救い難い。俺は偽善者だ。心の抵抗を感じながらも、好奇心から見てみたいと思ってしまった。だが悪いか。好奇心、探究心、冒険心こそが、人類の進歩を支えてきたんじゃないか。くだらん固定観念、凝り固まった得手勝手な倫理観などこの際糞喰らえだ。俺は勘違いした道徳屋ではないのだ(実際、プラスティネーション標本愛好家もけっこういらっしゃるとの事)。
 しかしモノがモノだけに二の足を踏んでしまうのも致し方ない。想像してみてくれ。実際会場へ行ったら、あのマッスルオープン標本と同じようなのがごろごろいるのだ。遠い眼差しをして、だ。筋肉内臓丸出し、頭蓋骨切り取り中丸見え、だ。
普通の感覚なら、ビビってしまう。
 しかし、これはいい経験になるだろう。いや、間違いない。医療関係に出入りでもしてない限り、なかなか出来る経験じゃないんじゃないか。人体標本・・・・イコール、人様の遺体と対面するなんて。
 しかしトラウマになって夢に出てきたら・・・・(実際そうなる)葛藤する。蚤の心臓というなら、そう笑えばいいじゃないか。
 
 ええい、まずは情報収集だ。インターネットでゴー。
 「人体の不思議・特別展」の公式サイトを検索し、飛ぶ。やはりというか、あっさり簡単に見つかった。
 トップページのカラフルな顔面血管標本(確かそう)は勘弁して欲しかったが。
 
 ほう! ほうほうほう!!
 
 欲しい情報が得られた。「人体の不思議・特別展」の詳しい趣旨も基礎知識も、よおくわかった。標本のサンプル画像から、過去の会場の様子、トピックスまである。なんと関連書籍、ビデオなどの通信販売も出来る。
 これだけではどうかと思い、実際に会場に見に行った人のサイトも見てみる。感想が知りたく思ったのだ。見てみると、まあ、予想どおりの内容らしい。
 
 つまり、救急車が会場のある建物前にやってくる、というほどだ。ご来場の方が卒倒してしまう例も枚挙に暇がないらしい。
 少しブルったが、この機会を逃すのは惜しい。
 俺は、決めた。
 
 さあ、さあさあ!! 勇を鼓して中へ入ってみようじゃないか!!
 おい貴様!! 逃げるな!!!
 入場して、速攻プラストミック・ショックの洗礼を受けるわけではない。「人体の不思議・特別展」の展示会場へいたる前に、併設の「九州の医学史・文献展」を通る事になる。
 本当にざっくりで申し訳ないが、解体新書とかシーボルト関連とかの、確かそういう内容だった。貴重な文献が並べてあったはずだが、あまり憶えていない。
 だがむべなるかなだ。言葉は悪いかもしれないが、俺にとって、これは本番に向けての、ウォーミングアップに過ぎないのだ。他の来場者もそう思ったのでは? ぶっちゃけ。
 しかし、こういう博物展系に久しく足を運んでいない俺としては久々にアカデミックな気分にはなった。
 何だか前フリ(失礼)みたいな「九州の医学史・文献展」もそろそろ終わりに近づいてきた。展示物を眺めながら歩を進めていけば、通路になっている目の前の狭い空間が切れ、広い場所へと出るようになっている。遠くに、分厚い人垣と、何か学校に置いてあるような人体模型みたいなのが見える。
 あれこそ、プラストミック標本そのものの姿だ。
 
 ああ・・・・ついに来たんだ。
 お前、回れ右はやめろ。
 
 例の「筋肉遊離なんたらかんたら標本」がある。一目散にそちらへ向かう。人垣を押し分けたり、待ったりしてようやくそばまで辿り着く。
 広告から雄々しい立ち姿を想像していたが(もっともあれは上半身しか見えなかった)、実際の彼は気持ち中腰で、こういう表現は失礼だがどうにもサルっぽかった。遊離した筋肉も、ピアノ線で固定されている。
 周りを見回せば驚くべき人体全身標本が何体も立っている。その無言の迫力に圧倒される。会場内は控えめとはいえショーアップ(天井からアートな人体図もぶら下がっているし)されているが、人体標本の周りには異様な空気が漂っている。
 ああ、やっぱりか・・・・おれは実感を新たにした。やっぱり、こういう雰囲気なのだ。
 照明も明るめだし、人も多いし、昼だ。今は賑やかでいいが、これで人気がなかったら、結構ビビるかもしれない。良かった、ゴールデンウィークたけなわで。
 ここの警備員の仕事はしたくないと、俺は心底思った。
 
 ここで驚くべき最新技術、「プラストミック」について触れておこう。
 「プラスティネーション」と「プラストミック」のどのあたりが違うかわからないが、呼び方が違うだけだろう。
 人体標本といえばあまりに有名なのが、ホルマリン漬けだ。イエローホルマリンではない。長く医療関係で主流の座を占めてきた従来のホルマリン標本だが、臭いがきつく、しかも扱いが不便とあってこれがなかなか難物だったらしいのだ。
 このホルマリン漬けに代表される従来の標本作製技術には以前から不満の声があがっていた。しかも完璧に劣化を防げないし、標本としてのクオリティにも難がある。
 医学への造形を深めてもらうための一般への開放など、どだい出来ない相談だった。
 そんな中、人体保存の新技術「プラスティネーション」がドイツで産声をあげる。手元の資料では、その第一人者はハイデルベルグ大のフォン・ハーゲンスとある。これは、水分と脂肪分を抜いた献体に、樹脂成分(シリコンなど)を染み込ませて定着させようという画期的なものだった。俺はこのくらいの事しかわからないが、パンフレットなどを取り寄せたりすると詳しくわかるだろう。多分標本の製作工程もだ。
 このプラストミック処理された人体は無臭で、まったく腐敗せず、弾力性に富むという。保存状態も良好で、驚くべき事にほぼ半永久的に人体をそのままの姿で留め置く事が出来るのだ。扱いも、従来のものと比較して実に容易だ。
 何よりの利点は、直に触れる事。そして、プラストミック化された人体は生前の状態そのままに、生き生きとしている事だ。これは見る者に、人体の何たるかを細部にわたって教えてくれる。
 こうして、医療現場で福音ともいうべきプラストミック技術の恩恵によって、様々なテーマに沿った人体解剖標本が、多くの人々の目に触れる事になったわけだ。
 その一つが、この「人体の不思議展」である。

 会場に展示されているプラストミック標本は数もさる事ながら、何よりバリエーションが豊富だ。
 人工心臓などといった医療器具埋め込み全身標本、縦ぶった切り半身標本、アーティスティックなお坐り骸骨、手足などの各種パーツ、着色されたと思われる血管標本、神経、脳、頭部、性器、消化器・・・・よくもまあ、である。
 特に全身標本はアート心を発揮して作ったと誤解されてもおかしくない程の凄まじさ、アンド時には茶目っ気さだ。誤解を恐れずに言うが、猟奇的ですらある。ここまで手を加えた人間のセンスを疑ってしまう(人体を研究対象として純粋な目で見ているんだろうが)。
間近で見るプラストミック全身標本は、確かに生々しい。しかし・・・・矛盾する事を書くが、どこかリアリティがないのだ。もちろんリアルもリアル、これ以上もないほどのリアルだ。
 樹脂で固められたせいだろうか、俺にはプラスチック細工にも見え、極めてよく出来た人体模型のように見える。
 全身標本には個人を識別できる部分が希薄だったせいだろうか? 確かに頭髪などはなく、顔面も表皮があるものもあるが故人を偲ぶほどのものは感じられない。
 正直想像していたよりも気味悪くはない。
 血液や体液が存在しないせいもあるだろう。干物のような表面もそうだ。多少の柔らかさを持っているが概ね硬く乾いているので、これが人体模型っぽい印象を与えているのかも知れない。
 もっとも、これがドロドロでグチャグチャで水分たっぷりで柔らかく、おまけに血まみれの状態だったら冗談では済まされない。腐乱死体よろしく青黒く変色していても大変だろう。そんなものが目の前にいたら俺も含めて皆卒倒していた事だろう。
 臭いもまるでない(少しゴム臭いらしいが)。まさに無味乾燥だ。
 こう間近で見ていて、何も感じない。いや、感じる事は感じる。これがこうなのかと、この筋肉はこうなっているのかと。ただ、それだけだ。驚きを込めた興味だ。もっと言うなら知的好奇心が先に立ってしまったという事だろう。
 俺の隣りの女性はさも不快そうに顔をしかめて見ている。俺はというと、人と人の間から首を巡らせて、喰い入るように見入っていた。俺は不安になった。
 
 俺の感性はズレてるんじゃないだろうか。
 
 杞憂だ。俺だけじゃない。他の人も足を止め、標本のあちこちに視線を走らせて、細部を目に焼き付けるようにして見ている。やはり人それぞれの受け止め方次第、というわけだろう。気持ち悪いと片付けてしまえば、それで終わりなのだ。肯定すれば、そういうふうに見えてくる。よく知ろうと思えば、熱心に見入ってしまうのだ。
 彼らプラストミック標本は、人の心を写す鏡なのかも知れない。と、キザに思ってみる。
 俺は、目の前の現実を貪るように見ていた。もちろん「うわあ」と思う場面もあったが、それでもじっくりと見て、会場を巡った。
 
 俺は思い至った。
 
 今の今まで耐え難いほどの嫌悪感も恐怖感も感じなかったのは、プラストミック人体標本が持つ、あの有無を言わせぬ迫力で圧倒されていたせいではないかと。
 多分だ。
 無論さっきも書いたが、人体のありとあらゆる部分が、あらゆるシチュエーションで展示されているので知的好奇心が刺激されたというのもあろう。
 輪切りにされた頭部(堅く閉じられた目を見ればまつ毛が生えていた)。見れば、うどんかそうめんのような太さの神経。病魔に犯された状態の臓器。
 それらは物凄い物量で次から次へと畳み掛けてくるのだ。「さあ、見ろ! 見ろ!! 見ろコノ!!!」である。
 「もう帰る? もういい?」
 眼鏡パパにだっこされた小さな女のコが、怖そうにしがみついてたのが印象的だった。
 これが原因で間違った方向に育たなければいいが。
 あっという間のこの道のりも、ぼちぼち終わりに近づいてきた。
 ここには、触れるプラストミック全身人体標本がある。
 題して、「皮切と胸腹部臓器」だ。ネーミングからでも、どういう状態の格好か想像出来るだろう。

 触る? 触らない? 触る? 触らない? 触る? 触らない?
 
 「皮切と胸腹部臓器」様に歩み寄りながら、迷う。
 もちろん触るつもりでここへやってきたのだが、いざ現物を目の前にするとさすがに気後れしてしまう。
 お触りオーケーの人体標本ではあるが、やはり実行に移すのに勇気が必要だ。至近距離で観察しているもののついぞ触れられなかった方も少なくない。
 やはりやんちゃな子供はこの辺は強い。若干躊躇するものの、内臓、筋肉、骨を赤裸々にさらけだしたプラストミック標本様の、各部の感触を確かめる。べたべたべたべた、「皮切と胸腹部臓器」様いやんだ。破廉恥ですらある。
 俺としても、この機会を逃すわけにもいかない。ここまで来て素通りはなしだ。
 軽く一礼。初めてなんで、どうかよろしく。おずおずと手を伸ばす。
 俺はまず筋肉にトライした。

 見た目もそうだが、手触りも、やはりだ。

 プラストミック化された筋肉組織を見た人がよく洩らす感想ナンバーワンがある。この会場でもあちこちで何度も聞いた。それはこうだ。
 「ビーフジャーキーみたい」
 本当にそうなのだ。考えてみれば、牛の筋肉繊維(肉)も人の筋肉繊維(これも肉)も大差ない。さっき見た太ももの輪切りなんてまさにハムの塊なのだ。
 俺はタブー中のタブーとされているカニバリズム(人肉共食い)に思いをいたした。誤解されては困るが喰いたいと思ったわけじゃない。はっきり言って、御免だ。ただ多くの人間社会でタブーとされている人体の食材化について考えていただけだ。繰り返しになるが人間は特別ではない。牛や豚や鳥同様所詮は肉だという事だ。
 腸も試してみたが、プラストミック加工のせいだろうか・・・・俺は腸詰めウィンナーの皮を想像していたのだが、まるでビニールのような質感だ。
 
 次に俺は標本の肌に触れた。
 そこで、疑いなくこれが人間だという事実に今さらながら驚いた。
 俺は今まで普段目にする事のない剥き出しの筋肉や内臓と対峙して、そのあまりの「異常さ」に現実感がなかった。だが、今こうして触れた彼の肌は間違いなく人間のものだったのだ。
 確かに冷たい。だが、この「肌触り」は妙な印象を与えるものだった。
 うまくは言えないが・・・・「親近感」か。多分これで正解だろう。
 すぐ近くにいるプラストミック標本の姿は異様だ。「これは元人間だ」とは頭で理解していても俺や俺の周りにいる人間とは異質なものに感じられた。だが、この「肌触り」が、標本としての彼の姿と生前の「生きた人間」としての姿を重ね合わせていた。
 俺はこのプラストミック標本に、人間を感じた。ここに一人の人格が住んでいたのだ。
 
 俺が感慨深げにしていると、背後で「よく触れるねえ? あたしは触れなーい」という声が聞こえた。俺は随分長い事標本に触れていたらしい。
 
 何だと・・・・?(ここベジータっぽく)
 ほ、ほ、ほ(お)のれえええええ!!!!(ここもベジータっぽく)
 
 これが俺のハートに火をつけた。癪にさわる言い様にムカっ腹が立った俺。変に東京弁なのも博多もんとしてバリムカついた。
 そこで俺はわざとらしく大きな声で解説しながら、「これが腸、これが・・・・」と先ほどのセンチメンタリズムを放擲して人体模型様を触りまくった。連れがいたので二人で語らいながらだ。

 さあ、「人体の不思議・特別展」もいよいよフィナーレ。
 ラストを飾るのは、「プラストミック化された脳味噌の重さを体感しよう!」コーナーである。
 俺は試してみたく思ったが、見れば気が遠くなるような長い列である。連れを待たせるのも気の毒だったので、涙を呑んでこれは断念する事にした。
 出口に差し掛かった。俺が列を追い抜いていきながら歩いていると、列の最前列で脳味噌を手にした五十代親父の姿が目に留まった。
 おっさんは、脳味噌(盗難防止のためか紐に繋がれている)を両手に持って「ほら持たんか持たんか持たんか持たんか持たんか持たんか」と、恐らく自分の息子であろう子供に突きつけていた。子供は嫌がっていた。

 以上が、「人体の不思議・特別展」体験記である。
 いろいろと考えさせられた、有意義なゴールデンウィークの過ごし方だった。楽しい観光もいいが、こういうアカデミックな気分に浸るというのもたまにはいいもんだ。
 
 さすがに食事という気分でもなかったが、せっかくだからメシは喰っておこうという連れに同意した。
 とりあえず福岡市博物館を出てすぐ近くの某テレビ局の建物へと入る。思い出したが、「人体の不思議・特別展」にはここの局も協賛していたのではなかったか。

 何と徹頭徹尾な行動だ。我ながら惚れ惚れする。
 
 ここの建物に入っているカレー専門店で食事にする事に決めた。
 この店のランチはバイキングスタイルなので食べ放題である。しかも専門店だけあって種類もある。値段もリーズナブルだと思ったが、こいつは浅慮だった。
 考えてみればカレーをそう何杯もいけるものではない。俺は二杯ほどでギブアップした。しかもその二杯目も食べ切れなかった。二回目トライのタイ風カレーも個人的に正直馴染めなかったというのもある。
 俺がビーフカレーの中に混じっている牛肉片をスプーンですくいながら、その肉片とこれまで見てきたプラストミック人体とオーバーラップさせている間に、近くのテーブルについていた布袋腹の親父がかなりの頻度で席を行ったり来たりしていた。
 俺が心づいてそちらを見やると、使用済みの皿が結構な高さで積みあがっている。
三、四枚か? 瞬きしてもう一度しかと見たが、やはりそうだ。
 忘れてはいけないが、これは全部カレーライスである。ちょっとしたお惣菜とはわけが違う。現在奮戦中の皿の盛りもかなりのものだ(もちろん盛りも自分で加減できる)。まるで、この時間制限一本勝負に全てを賭けているようだ。全種類にトライしているのだろうか。一人カレーバトルロイヤルなのか?
 なんという驚異の胃袋、お前はキレンジャーか。
 
 俺は内心突っ込んだ。
 「お前が「人体の不思議(展)」やねん!!」

 後日談だが、困った事になった。
 
 やはりあの体験が衝撃的だっったのか、度々悪夢に悩まされる破目になったのだ。
 筋肉と内臓を露出したプラストミック全身標本が、遠い目をしながら陸上部走りで追っかけてくるのを想像してみるがいい。
 俺はしばらくの間夢の中で、カール・ルイス走りのプラストミック標本と百道の街でチェイスを演じる事になる。

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