第6回
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■ 宇宙へのいどみ方、あるいはある夏の日

 ご存知の通り宇宙は広い。そして果てしない。
 このとらえどころのない宇宙にいったいどこから挑めばよいか。
 大丈夫だ。心配ない。
 地球という惑星の地面にたっている時点から、宇宙ははじまっている。そこからまっすぐ上へいけば、漆黒の宇宙空間はすぐにはじまる。有名なはなしだ。

 ではいったい、電車に揺られて通勤し、コンビニに立ち寄り、雑誌をめくる生活のどこに宇宙はひそんでいるというのか。

「お降りのお客様、車内こみあいまして窮屈様でした。」
 9時の作業に間に合うようにと、営団地下鉄日比谷線の通勤電車にゆられていると、各駅ごとに車掌がアナウンスする。窮屈様とは、なんといい加減な表現だ。窮屈であるという状況に「様」をつけて擬人化しているのだろうか。あるいは「窮屈な様子」という意味か。
 空腹様でした、寝不足様でした、業務上横領様でした、という具合に展開していけば、彼の言いたかったこともわずかながらつかめるはずだ。

 ついでにいうなら、
「次は築地です。降り口は左側です。」
よりは、
「築地に着きます。降り口は左側です。」
のほうがぐっとくる。
 前者は、「移動しているのはみなさんで、私は車掌だ。」という距離と態度。後者のほうがやや主観的で、電車で移動するという行為に、乗客とともに酔いしれている車掌が目に浮かぶようだ。


「モンブラン」
 コンビニでも売っているご存知、あのぐるぐる巻きの栗味のケーキだ。イタリア半島の北、アペニン・アルプス山々の最高峰がモンブラン(4810m)。ところで、モン・ブランとは白い山のこと。イタリア語ではモンテ・ビアンコというらしい。夏でも氷河があって霧につつまれるそうだ。きっとモンブラン以外の名前は思いつかないような素晴らしい山なのだろう。そこまで知った上で、考えなくてはならないアイスクリームがある。
 そう、「ブラックモンブラン」だ。残念ながら全国展開している商品かどうかは不明だが、少なくとも九州では広く知られている。例えるなら、黒い白装束。極めて短い距離で矛盾している。とにかく、未だにこのアイスクリームの名前の由来だけは、霧ではなく、謎につつまれている。
 さらに言うと、会社の健康診断で「どこか悪いところありますか」と医者にきかれるのも、謎が謎を呼ぶ感じがしていい。


「越えていく人へ。」
 雑誌をめくっていたら、突然この文が飛び込んできた。文字の下には、バランタイン17年のボトルの写真があるだけだ。酒をあまりのまないぼくなんかでも、こういうコピーを見るとぐっとくる。このことばの裏には、何かただならぬものを感じるからだろうか。
 三十台を全力で働き抜き、気がついたらいい年になっていた白髪混じりのサラリーマンが、あるとき新しいことをはじめる決意をする。そのシーンの片隅に、バランタイン17年が置いてあるのだ。そんな情景が浮かんでくる。
 モルトウイスキーとグレーンウイスキーをブレンドすることで、ブレンデッド・ウイスキーという新しい可能性を発見し、研究したジョージ・バランタイン。
 そういう余計な説明がなにもなくて、ただ「越えていく人へ。」
 なんて前向きで、静かなことばだろう。

 例えばある日、絵画に詳しくなってみようと思ったとする。絵画はすでに世界中に無限にあり、地域や時代によってなんとなく分類されている。そこで例えば、では西洋美術史から入ってみるか、となるわけだ。

 未知の概念や、経験したこともないことをいきなりとらえるのは難しい。やはり、宇宙とはいえ、毎日の生活の中から少しずつ発見していくしかないのだ。大切なのは、何かを観察し、記憶し、疑問をもつことだと思っている。
 トンネルの向こうにはいったい何があるのか。この森にはいったい何がいるのか。
 こどもには簡単なこの思考が、どうやら年とともに消えていきやすいらしい。必ずしも空想でなくともよいけれど、少なくとも今そこにある事実を、自分が現在持つ知識だけを根拠にしてとらえようとするのは本当に悲しいことだ。

 さて、そんなことを考えていたある日。
 夏の日の暑い朝だった。大きな木のある公園でジュース片手にベンチにすわっていた。9時過ぎ、老人がわらわらと集まってくる。きっとなにごとかはじまるのだろうと期待し、ここはゆっくりと観察をはじめることにした。
 彼らの一人が、板に9本のポールを立て、離れたところから9個の輪を投げはじめた。輪投げだ。
 実に地味だ。想像してみよう。快晴の朝に、大木の陰で輪投げをする老人の集団。
 投げ終わると、何事もなかったように輪を拾いだし、次の人が投げ始める。得点をなにかにつけたり、フォームを確認して評価したり、そういうことは一切なしなのだ。とにかく投げつづける。
 彼らが何を考えながら、投げる行為に夢中になっていたのかはまだわからない。だが、彼らは単なる輪投げの域を越えたところにいたに違いないと確信している。それは、まだぼくのような若輩者には到底気付き得ないことなのだろう。

   この夏は夕日を見ることが多かった。どの夕日も印象的だったが、それよりなによりこの老人の集団が強烈に目に焼きついた。もっときれいな思い出の1つや2つあっただろうに。そして困ったことに、夏の日のおもいでは忘れがたいものだ。

 こうして夏の記憶は分断される。
 やや混乱してきたら、月を見に外にでてみようか。月は毎年数センチずつ地球から離れていることなど考えながら。
 
     

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