『いもや』は神保町の有名店で、天ぷら定食、とんかつ定食、天丼の3軒の専門店がある。大学が近いこともあり、リーズナブルでありながら、どの店もなかなかに美味い。私はそのなかでも天丼のいもやがお気に入りなのだ。かつてフリーライターになりたての頃、神保町の編集プロダクションに通っていたのだが、その時は週に1度は行っていたくらい、ここの天丼が好きだった。いや、むしろ“愛している”。天丼と結婚したいくらいだ。妻がいなければしてたな、結婚。天丼と(涙)。
扉を開けると「いらっしゃいませー!」の元気な声。ピークタイムをちょっと過ぎているせいか、カウンターには空席があった。
「おっ、待たずに済むな……」
ちょっとホッとして窓の前のスペースに紙袋を置こうとすると、女性店員さんの声が私にかけられた。
「天丼でよろしいですか?」
紙袋を置く姿勢のまま、反射的に返す。
「はい、天丼で。あと、お新香ください」
手馴れたものだ。海老天丼もあるが、私に言わせれば天丼の具のバランスこそが“いもや”なのだ。なんつって。
荷物を置いて席につく。お新香が出された。絶妙の塩っ気とかすかな酸味が効いた白菜をつまみながら、天丼を待つ。先ほどまでカレーのことで頭が一杯だったとは思えない。
「ご飯の量は?」
天ぷらを揚げているご主人と思しき男性が訊ねてきた。返す言葉はもう用意している。私は迷うことなく、こう答えた。
「中盛りで!」
ご主人の声にかぶるぐらいのスピーディーな私の反応を受け、女性店員さんが丼にご飯を盛ってカウンターに置くと、ご主人が揚げたての天ぷらを盛りつけ、タレをかけて差し出した。
「はい、天丼中盛りです」
これだ! 目の前の小宇宙つまりコスモ要するに丼を眺めながら、私は心の中で叫んだ。絶妙の炊き加減と、天ぷらを乗せる前にご飯を盛って少し時間をおいているからだろう、タレのかかったご飯がペッシャリしていない。辛めのタレは衣がシンナリするほど過剰にかかっていないので、カラッとした天ぷらを楽しめる。“いもや”によく似た名前のチェーン店の揚げたてなのにご飯も天ぷらもベチャッとした酷い天丼とは大違いだ。
海老、キス、烏賊、南瓜、そして海苔の天ぷらが乗ったご飯に七味唐辛子をかけ、躊躇なく箸を進める。天ぷらを食す順番も決まっているのだ。
まずはホッコリと蒸し状態の南瓜の甘味とタレ辛さのコントラストを楽しみながら飯を食う。次は海苔。反面にだけ衣がついた海苔のサクッとした食感と香ばしい磯の香りがなんとも嬉しい。海苔の天ぷらがこんなに美味しいとは、この店を知らなければ一生知らなかったかもしれない。そして柔らかいキスの上品な白身を頬張り、飯をかきこむ。時折シンプルな豆腐の味噌汁をすすり、お新香をつまんで味覚に緩急をつける。もう丼の中のご飯も半分以上なくなっている。いいペース配分だ。
海老だ。尻尾まで食べる人もいるが、私は育ちがいいので尻尾は食べない。……本当は、子供の頃尻尾が喉に刺さって悶絶した経験がトラウマとなっているからだ。30歳を過ぎているのにゲームをプレイしているとすぐに腹が立ち、ゲームのキャラクターに向かって「死ねバカ!」とコントローラーを投げ捨てるような私こそ、海老の尻尾などを食べてカルシウムを補給すべきだと思うのだが、まぁ、それはそれ(涙)。
必ず最後に烏賊を食べる。実は世の中で一番好きな天ぷらのネタが烏賊なのである。独特の烏賊の弾力と味に酔い、そして、丼にへばりついた飯粒を烏賊の天ぷらで一箇所に寄せてすくってフィナーレを迎える。
残しておいた味噌汁を飲み干し、席を立つ。
「えーっと……きれいに食べたから600円ね」
私の丼を覗き込んだ女性店員さんが言った。天丼は並盛りが500円、中盛りと大盛りが550円、お新香は100円と壁には貼られている。本来ならば中盛りとお新香を頼んだ私は650円を支払うのだが、これにはカラクリがある。このカラクリを知っていれば中盛りも大盛りも並盛りと同じ値段で食べることができるのだが、タネ明かしはあえてしないでおこう。ヒントも書いておいたし。……わかるね?